中植正剛 神戸親和女子大学准教授 教育工学を専門にする大学教員の日々の雑感


by toshishyun

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スタンフォード大学で行われた、体操の、日本選抜チーム対スタンフォード大学のエキシビジョンマッチを見てきました。圧倒的なスタンフォードの応援に交じって、日本選手を頑張って応援してきました。会場の司会もスタンフォードを熱狂的に実況。スタンフォードの応援の仕方の指南までしている、典型的なアウェイです。

アウェイの厳しい採点ながら、格の違いを見せつけて日本選抜の勝利。

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日本選抜は、U-21の強化選手を中心に組まれています。この中から、次のオリンピックで活躍する選手も出るはずです。

渡邊 恭一選手 田頭 剛選手  寺尾 尚之選手 山本 翔一選手 古賀 裕将選手 小泉 和照選手
宗像 陸選手 伊藤 豪選手 (写真の順番はバラバラです)

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どの種目を取っても、日本の選手の難易度は圧倒的でした。ホームでのエキシビジョンでなければ、スタンフォードはこれほどの接戦には持ち込めなかったでしょう。

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<床の演技。前方伸身宙返り2回ひねりを決める日本代表>

前を通りすぎる伊藤選手に「頑張ってください」と声をかけたら、「はい、頑張ります」と返してくれたのが嬉しかったです。

<試合開始を待つ日本選抜>
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by toshishyun | 2009-02-28 16:22 | その他
ボクも大学生だった - 森 毅 | ナジックリリース | 株式会社学生情報センター

森 毅さん、大やけどをなされたそう。僕が高校生くらいのときに、よくテレビに出たりされていて、本もよく読みました。はやく良くなって欲しいなぁ。研究者としての業績に疑問の声もあるようですが、こういうほんにゃらした人、好きです(笑)。自分がそうなれないからかな。僕の世代なら、受験のときにこの人の本読んで、ホッとした人もいるのではないでしょうか。

学力低下についてはこうおっしゃってます。

「今、学力低下っていわれてるんだけど、ボク、これが気に入らない。ボクらの時もいわれたし、1969年の学生さんの戦争ごっこの時にもいわれました。客観的に強くいわれる時期というのが周期的にあるんです。

東大理で半分以上の学生が授業についていけないという話があったでしょう。あれ絶対に嘘、そんなについていけるわけないやん。京大の経験からいっても、理解してる学生はもっと少ない。それに東大は京大より不親切やから、ほとんどの学生、理解できてないはず。

誤解してほしくないんですが、学問ってそんなもんやと思うんです。なんやわからんけど、読み進めるとか、わからんからじっくり考えるとか。今は、テキストとかレジメありきで、そこから逸脱すると文句が出る。ボクの時なんて、寮の先輩が「これええで」と薦めてくれた本が、ヘーゲルの『精神現象学』ですよ。

16歳でわかるわけない。でも読むんです。」

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「あれ絶対に嘘、そんなについていけるわけないやん。」で笑ってしまいました。東大生でも大半がわかってないわけで・・。

これを、古き良き時代の教養主義と見るか、学びの本質をついている意見と見るか。

高校・大学が大衆化したいまでは、こういう考え方で授業をやるというのはもう時代にそぐわないことかもしれません。しかし一方で、「何やらわからないものにみんなで向き合って、手探りで学びをすすめる」ということも大事なことで、いまの学生は、ちょっとわからないとすぐに「わからん~!」と文句を言いだしますし、わからないのは先生の教え方が悪いからだということになってしまいます。ただ、学生を擁護する立場で言うと、先生の教え方が悪い、というのは学生の考え方でもありますが、それ以上に周りの大人の考え方の影響によるものも大きいと思います。

大学教員として、わかりやすい授業をするために粉骨砕身するのは当然のことですし、そのために資料を工夫したり、学生中心の学びをするためのしかけを用意したりするわけで、それはもちろんやらなければいけない。もちろんそのために、真摯に授業改善のための勉強をしなければいけない。それが教員の務めですから。

ただ、一方で、大学というところは、学生にとっては、学校社会と実社会との接点に位置する場であるわけで、そこで手取り足とり「わかりやすい」授業をして、過保護に教育することが、果たして本当に学生のためになるのか、僕は煩悶することが多いです。なぜなら、世の中にはわからんことのほうが多く、わからんなりにも中途半端に進めていかないといけないことが多いわけですから、そういう実社会に近い形の学びの経験は、大学生のうちにしといたほうがいいと思うからです。というのは、言われたことを完璧に理解しようとするくそまじめな奴や、別に誰のせいでもないのに、自分がわからないのは誰かのせいだと思ってる奴ほど、就職してから、自分の内面と職場の現実との折り合いがつかず、挫折して辞めてしまうからです。そして、社会に出てからのこういう挫折は、とてつもなく痛みをともなって苦しい。ましてや日本の社会は、いったん挫折した人間が這い上がるのはとっても難しい。

このあたりの考え方、難解な授業をしている大学教員のいいわけととるか、それとも学生の将来を本気に思いやっての考えととるか、僕にはまだよくわかりません。両方がないまぜになったような気分ですが、少なくとも僕は学生の将来を案じてはおります。

わからないけど、それでもやっていくのです。Life goes on.
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by toshishyun | 2009-02-28 06:44 | ラーニングとテクノロジー
カリフォルニア州立大学のJulie Gainsburgの講演を聞いてきました。題目は、建築エンジニアリングの現場で使われる「大人の」数学について。

エンジニアの現場で使われる数学というのは、そのあり方からして学校の数学とは異なります。学校の数学では、「必ず解が導き出せる綺麗な問題」が与えられますが、エンジニアリングなどの実社会で使われる数学は、混沌とした現状から問題を見つけ出し、問題を定義するところから始まり、試行錯誤を経て解法を導いてゆきます。しかも、問題の定義から問題解決までのプロセスは、学校のように公式を当てはめて解くというような直線的なものではありません。なんどもなんどもモデルを作っては確かめ、問題の定義そのものに立ち戻って問題を作り替えたりして、ときには解法を比較しながら、往きつ戻りつして解決にたどりつくきます。そして、学校の数学のように、与えられた解き方を当てはめるだけではなく、現場の数学では、解き方を柔軟に変えたり、自分たちで解き方を編み出したりしながら問題を解決します。場合によっては、問題を解かずに、問題そのものを回避してしまうという選択肢すらあります。

このようなことを、建築エンジニアの仕事を例にあげながら、面白く話してくださいました。Laveの実践共同体研究の流れをくむ研究ですね。

これまで、一般人が日常生活でどのように算数・数学を使うかという研究はありました。例えば、ショッピングでどのように我々は算数・数学を使っているかなど。ただ、残念なことに、われわれ一般人が普通の日常生活で使う算数・数学というのは、学校で習う数学で言うと、だいたい小学校程度の知識で事足りてしまうわけです。また、普通の仕事(セールスや事務職)で使われる数学も、大抵は(アメリカの)中学3年生レベル以下の知識で事足りてしまいます。それに対して、エンジニアという専門職を取り上げ、より高いレベルの数学がどのように実社会で使われているかを調査したのが、Gainsburgの特徴ですね。

以上のように、実践の場で使われる数学と学校の数学にはギャップがあります。このギャップから学校の数学を考えようというのが、この研究の目的ですが、じゃあ、学校の数学も現場の数学のように、複雑な問題を与えて、生徒たちが自分で試行錯誤しながら解決できるようにしたらいいじゃないか、となりがちです。しかし、それは少し飛躍しすぎです。

まず、エンジニアの職場は数学を「使う」場であり、学校は数学を「学ぶ」場であるというように、それぞれの場の持つ目的が違うというのが一点。エンジニアは既に数学を良くわかった上で仕事をしているわけです。物事には順序があります。まずは習わないことには、使えません。数学に関する豊富な知識もなく、いきなり問題の定義から始めよと言っても、それはムチャというものです。

それから、現場の数学は「オープンエンド」であるという問題があります。人によって、出てくる解答が違います。例えば、建築エンジニアの耐震設計などでは、耐震のためのしかけをどうデザインするかによって、用いられるモデルも公式も計算も変わってきます。極端な言い方をすれば、10チームあれば、10通りの解答があります。そして、どの解答が良かったのかは、実際に建てて様子を見てみないとわからない部分もあります。こういうのは、学校教育とはなかなか相容れない部分があります。学校では、みんなが同じ内容をきちんと学ばなければならないということと、学んだことの成果を、他人にわかるように評価しなければならないからです。

それから、時間の制約があります。エンジニアは、例えば、コンピュータがはじき出した数値が本当に正しいのか、本当に合理的なのかを、検算(確かめ)します。耐震は人命にかかわることなので、2,3人のエンジニアが寄って、3時間くらい検算をすることもあります。時には、コンピュータのプログラムを調べ、アルゴリズムを吟味して、検算結果と比較します。検算結果がコンピュータの数値と違うときには、検算結果を採用することもあります。このように検算にこれほどの時間をかけれるのは、プロのエンジニアだからできることで、残念ながら学校では、たった1つの検算するためだけに、そんなに時間をとることはできません。コンピュータのアルゴリズムのような、数学以外のことに関わっている時間は無駄です。生徒たちはもっと幅広く色んな数学を学ばなければならないのです。数学を学ぶという効率の点から言うと、職場の数学は効率が悪すぎるのです。

このように、現場の数学のやり方をいきなり学校に持ち込むことはできませんけれども、学校の数学が公式を覚えて解くだけになっているのも現状ですから、現場の数学の「垢」を落とした数学学習のモデルを作って、どこまで現場の数学とのギャップを埋めていけるのかが今後の学校数学の課題になりそうです。
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by toshishyun | 2009-02-27 16:05 | ラーニングとテクノロジー

このあたりでは、桜、咲いてます。2週間くらい前から、ちらほら見るようになりました。

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現在、データ分析に備えて、あれこれ論文読んだり、本読んだりしてます。まとめてここに載せたいのですが、まとめる切る前に次また読んでの繰り返しです。とりあえず最近読んだやつだけでもリストにしてアップしてみようかな・・・。

気がつけばもうすぐ3月。

今週末はトラフィックスクールに行ってきます。なぜなら、スピード違反しちゃったからです・・・。初犯なので、スクールに行けば、違反歴を取り消してくれます。けど朝から8時間みっちり・・・・(泣)。
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by toshishyun | 2009-02-26 11:58 | アメリカ文化
来月、公開授業を見にいくことにしていましたが、先方の手違いで4日間のうち、1日分の登録ができていなかったとのこと。しかし、当然当日欠席も見込まれるわけで、たぶん僕の席も確保できる見通し。

先方のメールには、"Thursday is already fully booked (and I was unaware that you were
attending), but we can "play it by ear" as they say" と書いてありました。

"play it by ear"って実は僕は初めて聞いたのですが、「臨機応変にやりましょう」ということ。「まぁ欠席もでるし大丈夫でしょ?当日適当にやりましょう」っていうことですね。

"play it by ear"。適当にやりましょう。成り行きにまかせましょう。ノリで決めましょう。

語源は面倒なんで調べませんが、きっと楽器でしょう。聞いたまま演奏するという耳コピーというやつか、あるいは、ジャズの即興演奏みたいなもんでしょうかね?

ファジーな日本人(僕?)にはとても使い勝手のよさそうなフレーズです。今後とも多用させてもらいます(笑)。いや、生きた英語を学ぶってのはこういうことですね。
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by toshishyun | 2009-02-25 10:41 | アメリカ文化

がんばれニッポン

Men's Gymnastics - Stanford University Official Athletic Site

スタンフォード大学はいろんなスポーツが強いので楽しませてくれます。

今週末は、スタンフォード大学体操部 vs 日本・大学選抜チーム のエキシビジョンマッチを見に行きます。

スタンフォード大学体操部は、NCAAで過去3度優勝経験のある強豪チームです。

かたや日本の男子体操のレベルの高さはみなさまご存知のとおりです。

先週のパシフィックコースト・クラシックでは、日本選抜チームが最後の種目でスタンフォード大学を逆転して優勝。スタンフォード大学はリベンジを果たすべく、ホームのエキシビションマッチで日本選抜を迎え討ちます。

僕は体操競技を生で見たことがないのですが、一度だけスタンフォード大学の練習を見たことがあります。あまりにもすごすぎて、逆にとってもシンプルに見えました。

とっても楽しみです。どちらを応援するか迷いますが、やっぱり日本かなぁ?
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by toshishyun | 2009-02-25 10:03 | アメリカ文化

高等教育

最近投稿が長くなってきたなぁ。反省。

高等教育について2つ

1つ目は、本日、京都から、スタンフォード大学のFD(ファカルティデベロップメント)を見に来られた方々と対談。いろいろ話をすすめていくなかで、やはりスタッフの充実がFDには欠かせないと感じました。教員向けのワークショップを開催したり、教員がポートフォリオを使って評価をする支援をしたりその分析をしたりするのに、スタンフォードはスタッフが充実しています。日本でスタッフというと事務職員ということになりますが、そういう立場ではなくて、教学を支援するための専門知識を持ったスタッフが揃っているんです。いわゆる「事務職員」を超えるスタッフがいないと、FDをやりましたよというアリバイづくり程度の取り組みからなかなか脱却できないと感じます。

2つ目は、スタンフォード大学の教員採用について。教員の選考は、候補者を大学に呼んで、研究についての講演をしてもらいます。講演は基本的に誰でも聞きに行けるし、その場には学内の先生方も聞きに来られるから、僕らにとっても、いろんな研究動向を知ったりするのに都合がいいイベントです。候補者は、一日中大学に居て、講演以外にも、いくつかの選考プロセスに参加するようです。そして、教員採用の委員会には博士課程の学生も入っていて、この学生が、いろんな学生の意見を集約して、委員会に伝えます。こういうのは民主的で良いですね。ただ、こういうのは形式だけかもしれないし、どこまで学生の意見が反映されるのかはわかりません。しかし、少なくとも、人脈やコネだけで採用されて、あとで、「あんな人、だれが連れてきたんだ?」となってしまうケースがよくある、日本の大学のやり方よりは優れていると思います。
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by toshishyun | 2009-02-20 15:10 | ラーニングとテクノロジー
血液型占いはなぜ当たるのか?

血液型占いが、占いなのか性格診断なのかはわかりませんが、もちろん僕は信じてはおりません。しかし、とっても面白いとは思います。

世界中で、医者でもないのに血液型についての話題をするのは日本人だけですし、科学的に相関関係がきちんと確かめられたわけでもないのに、よくここまで世間に浸透したなぁと思います。

まぁ、血液型占いというのは、話のネタとしては面白いと思いますし、結局、占いってのは、星座、血液、誕生日、手相、なんでもいいので、なんらかのネタを媒介にすることで、人の性格についてとことん話し合うという、コミュニケーションのための潤滑油みたいなもんかと思います。

手相占いについて、ときどき、「あんなにいろいろ聞いたらそりゃ性格もわかるわ!卑怯や!手相だけ見て占えよ!」っていう批判がありますが、ありゃ的外れです。手相はあくまでもコミュニケーションのきっかけで、あれはコンサルティングですから、基本、人を見て話してます。

そう思ってつきあうと、血液型占いは、世代を超えて話すことができる手軽なネタですし、話し相手の血液型占いに対する接し方や、話し相手が血液型についてどう語るかにじっくり耳を傾けることによって、間接的にその人の性格がわかったりするので、「俺は血液型占いなんて信じない!」なんてつっぱるよりも、これはこれでなかなか楽しいものです。

ただこういう疑似科学の大きな問題は、それを信じてしまうと、そのステレオタイプの枠の中に他人も自分も押し込めてしまうところだなぁと思います。血液型占いを信じているがために、A型なら、A型として言われているような性格になっていくということですね。他人についても、あの人はO型だから・・・とやってしまうと、もうそこの性格のところしか見えなくなってしまう。それを繰り返すことで、ますます思いこみが強化される、ってのが血液型占いの恐ろしいところだと、常々思います。洗脳ですね。

血液型占いの場合、ここまでのマーケットが形成されてしまえば、それで儲けてる人がたくさんいる以上、いきなり「血液型占いはウソでした」ってことにはならないだろうし、いくら「科学的に実証されていない」といっても、逆に「科学的に否定する」という証拠も挙げられていないわけだし、このまま血液型占いは日本の文化としてずっと続いていくんでしょう。

根拠があろうがなかろうが、ここまで根を張ってしまえば、もうお手上げという感じですね。井沢元彦さんの逆説の日本史の中で、「現代の我々から見て科学的にたたりが存在しないからと言って、昔の人がそれを信じて遷都したのであれば、遷都の理由はたたりだったといっても差し支えがない」というような主旨のことを書かれてましたけど、これは僕は真にせまった見方だと思います。

科学的には否定されるようなことでも、大多数の人間がその存在を信じて動いていれば、それはもはやあったも同然になるわけですよね、社会学的には。「科学的じゃない」とバカにするのは簡単ですが、それで事実が動いているということまでは否定できないわけです。恐ろしいことです。

だから教育で科学をきちんと理解させないといけないんだ!って教育にたずさわる人は言うんでしょうが、血液型占いにせよ、アメリカのいくつかの州で進化論が見事に否定されていることにせよ、たとえ科学がいきわたった世の中でも、人の思いこみというものは、なかなか覆せるものではありませんね。

ところで、血液型占いって学校教育で教えられたりするんでしょうか・・・?それが心配です。血液型占いをまともに取り上げるような先生がいたら困ります。それでなくとも、水からの伝言とか、ゲーム脳なんかは、学校の先生までもが本気で信じてしまって、講演会をしたり授業で子どもたちに教えたりしていますからね・・・。疑似科学は、大人として、分別をもって、パロディーレベルでつき合ってもらいたいものです。
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by toshishyun | 2009-02-19 20:05 | その他
答えは未定

アメリカの教育と日本の教育についてのこういう比較を読むたびに、日本人としての僕は、ちょっぴりユウウツな気持ちになってしまいます。「アメリカの教育=素晴らしい・高度、日本の教育=ダメ・低度」という価値観がそれとなく伝わってくるような気がするからです。

アメリカと日本の大学教育について、僕は専門家でもなんでもありません。ただ、僕は、日本の大学で学部(文系)を卒業し、アメリカの大学で学部(理系)を卒業し、アメリカの大学院(文系)を卒業し、日本で大学教員をやっています。そして今は、アメリカの大学で客員研究員をしながら、授業を垣間見る機会がありますので、多少は日米の大学を眺めてきた経験があります。

確かに、この記事のように、アメリカの試験や課題は答えが決まっていなくて、自分たちで考えさせるタイプのものも多いですし、問題設定から始めて、論理を積み上げていくという思考力が重視されます。それに対して、確かに日本の試験は教科書の答えをなぞるタイプのものも多いです。

ただしこれは試験同士を比べるからそうなるだけであって、もっと広くカリキュラムを見れば、日本の大学教育でも、アメリカの英文エッセーのような一つの型にハマったやり方ではないかもしれませんが、答えのない問題を自分で考えるということは行われています。

日本の場合は、問題設定から結論を導きだすのために、共同でコンセンサスを得ながら暗黙知を作り出していくようなやり方がポピュラーですから、それはアメリカ流とは違うかもしれません。しかも日本人はそういうプロトコルをドキュメント化しない傾向があるので、アメリカのように「わかりやすい」思考法にのっとったやり方とは違うのだろうと思います。

ところで、なぜ日本の試験が教科書の答えをなぞるようなタイプになるのか・・・それはきっとカリキュラムの違いでしょう。

アメリカの学生は、一学期にせいぜい5科目程度しか履修しません。それに比べて日本の学生は多い時には20科目以上履修します。もしも日本の期末試験をアメリカのように問題解決型にすると、いろんな問題が生じます。 1) 日本では教員の持つ科目数が多いので、時間のかかる問題解決型は教員が採点できない 2) 5科目程度なら、それぞれの科目について広汎な知識を仕入れる時間がある。また、学期中の課題にも相当の時間をかけているはずなので、そのタメが試験で利用できる。これを20科目でやるのは難しい 3) 20もの異なる分野について、それぞれに深い理解をもってゼロから問題解決を行うのは困難。

ちなみに、アメリカでは出席はマストですが、最近は日本でもマストです。これについても、アメリカはそもそも科目数が少ないから、余裕で出席できます。朝9時から夕方5時半過ぎまで、月曜~金曜までずっと出席、祝日にも補講、なんてことはありません。

あと、アメリカの大学=厳しい、日本の大学=楽、ってことはないと思います。確かに僕が行ってた学部の授業でも、40人いた生徒が10人になって、残りが脱落したなんてこともありました。けど、あの程度の科目数の履修で脱落するのは、アメリカの大学が厳しいのではなく、ハーバードのようなアイヴィーの学生はちょっと置いといて、やはり能力不足だと思います。

アメリカの大学と日本の大学、それぞれやり方が違うわけで、思考力の育成にしても、どこに重点を置くかが異なるわけです。アメリカの場合は試験にそれが現れているということで、日本の大学でも授業や課外活動で答の決まっていない問題を取り扱ったりするわけです。また、アメリカの大学では、以前から指摘されているように、評価のインフレが起こっているので、大した思考力に裏付けられていない文章でも、B+とかAとかが貰えたりするので、そういう問題もあるわけです。

ただ、この記事が紹介されているアメリカ式の批判的思考法や、型にはまったエッセーの書き方などは大いに学ぶ必要があると思いますし、こういう、プロトコルが明確な思考の方法論が無いところは日本の教育の弱点ではあります。

 
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by toshishyun | 2009-02-16 11:16 | アメリカ文化

ラッコ

釧路でくぅちゃんが大人気のようですね。こういうのがあると、すぐにくぅちゃんせんべいとかを売り出したり、ワイドショーで毎日やじうまを追いかけたりと、お祭り騒ぎが始まるんですが、僕はこの手のブームに乗っかるのがとっても苦手です。

けどちょっぴり乗っかってみます。

さて、ここシリコンバレーから南へ一時間、モントレーという港町では、野生のラッコが見られます。

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写真は12月にモントレーに行ったときのものですが、この日は2頭のラッコがチャポチャポ泳いでいました。なかなか可愛らしくて愛きょうがあります。

ラッコは歴史的に、クジラやイルカやアシカなんかと比べると、比較的遅い目に海に戻った動物なので、海での生活にもいろいろ不便な点があるようです。大変なのは、皮下脂肪が発達してないのですぐに体温が下がること。だからラッコは仰向けに浮きながら手足を海面から出して、日光で手足をあたためたり、必死で毛づくろいをして、毛の中に空気を入れて保温効果を高めます。それと、体温を保つために、必死に食べ続けます。食べ続けないと、死んじゃうのです。プカプカ優雅そうに見えますが、かなり忙しい動物なんですね。

ちなみに、上記の写真の撮影は、モントレー水族館の展望デッキからでして、実は水族館の中にもラッコがいます。僕なんかは、水族館の中のラッコと、外の自然のラッコ、自分がラッコだったらどっちになりたいかなぁ、なんて考えてしまいます。

僕ならば、贅沢ですが、「いったりきたり」がいいです(笑)。水族館の中で、えさをたっぷりもらって、安全な環境でしばらく住んで飽きたら、自然の海で雄大に過ごす。それに飽きたら、また水族館に行く。・・・そんなんだめですか?みなさんはいかがでしょう?

さて、くぅちゃん、いろんな人が騒いで見に行ってますが、そっとしてやってほしいものです。子どもに見せてやりたいって人もいるでしょうが、くぅちゃんはそもそも川でそうやって生きている生き物ではないでしょうから。

そんなことより、かつてラッコが乱獲されて絶滅した襟裳岬に野生のラッコを呼び戻すなどして、本当の野生の姿のラッコが見れるようになればいいなぁと思います。調べてみたら、3頭ほど居るようですよ。魚介類を食い荒らすという問題も発生しているようですが。

ちなみにラッコは海獺(うみうそ)という漢字を書きまして、英語では Sea Otter(うみのかわうそ)と言います。やっぱりくぅちゃんはカワウソではないので、そっとしてやりましょう(笑)。この辺のうんちくはウィキペディア先生が教えてくれます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%B3

さてこのブログ、僕の知っている人がけっこうこっそり見に来てくださってると聞きます。よかったら匿名でもいいんで、なんかコメントしていってくださいね(笑)。
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by toshishyun | 2009-02-16 03:34 | アメリカ文化