中植正剛 神戸親和女子大学准教授 教育工学を専門にする大学教員の日々の雑感


by toshishyun

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授業研究と修士号

日本で広く行われている授業研究も、アメリカではまだほとんど行われておらず、その歴史も浅いものです。アメリカの授業研究はLesson Studyと言われますが、これは日本語の授業研究を訳したもので、日本の授業研究ががお手本となっています。

アメリカでは教師が大学院に戻って修士号を取ることがあります。そして、修士号を取得すると給与にそれが反映されます。だからみな、大学院に行くことで少しでも給与を増やそうとがんばります。日本でも、広くあまねく教員に修士号を取らせようという動きがありますが、少し疑問を感じています。

日常的に授業研究を通じて授業改善を行い、教育における新しい流れに集団としてついていっている日本の教員と、そういう機会が持てないアメリカの教員とを同列に語れるのでしょうか?

素朴な疑問です。
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by toshishyun | 2008-11-19 05:20 | ラーニングとテクノロジー
あまり日本では知られていませんが、アメリカの各州には、日本の指導要領にあたるカリキュラムスタンダードというのがあるのですが、ジョージア州の算数・数学のスタンダードは、なんと日本の学習指導要領を下敷きにしています。

日本の算数・数学教育が優れているのはアメリカではよく知られているところですが、公的に日本のやり方を取り入れているジョージア州には、なんだか親近感がわきます。

アメリカのスタンダードは、いわゆる詰め込み教育的に、とにかくたくさんの内容をカバーしている割には、それぞれの単元の理解が浅いことが問題だと言われています。「a mile wide, an inch deep」などと揶揄されます。

一方で、日本の学習指導要領は、程よく厳選された内容で、しかも、学年をまたいで系統立てられた内容で、一つ一つの事項を深く分析しながら学べるように配慮されています。ジョージアは、他州に先駆けて、日本を手本に大胆にスタンダードを変更しました。

ただし、問題もたくさんあって、一番の問題はやはり「授業研究」がないことです。以前の投稿にも書きましたが、アメリカには授業研究や指導案というものがありません。したがって、ジョージアで大胆にカリキュラムを改編しても、それに教員研修がついていかない可能性が高いのです。

また、日本の算数・数学教育では、「線分図」のような、問題についての教師と生徒の対話を仲立ちしたり、生徒が問題を自分で分析したりするときに使用する、「視覚的支援ツール」が充実しています。こういうツールの利用なしに、日本的なカリキュラムを導入しても、日本のような「課題解決型」の授業展開は難しいのではないかと思います。

ともあれ、ジョージアの実践が困難を伴うものだったとしても、日本のやり方を取り入れることで、少しでもジョージアの算数数学教育がよくなれば、と願わずにはおられません。

カリフォルニアの様子も調べていかないと・・・。

「参考文献 渡辺忠信 アメリカの数学カリキュラムの近況:課題と展望 日本数学教育学会誌」
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by toshishyun | 2008-11-18 14:24 | ラーニングとテクノロジー

TANDA

今日は、所属する研究チームの先生の発表を聞きました。TANDAという、ヒスパニックの習慣についての発表です。

どこの社会にも、相互扶助の仕組みというものがあります。近代国家では、国が公的に行う、年金制度なんかがそうですね。

TANDAというのは、有志が集まって行う「貯金」の仕組みです。1人いくらと決めて、毎月お金を出し合います。そして、例えば5人のグループだったら、最初の月はAさんが5人分全部もらいます。次の月はBさんが5人分全部もらいます。これを5カ月繰り返すのです。例えば、1人100ドル出すとすると、500ドルが集まります。自分の番が3カ月目だったら、3ヶ月目に500ドルもらうのです。グループによって、毎月ではなく、毎週になったり、期間はまちまちです。

これがなかなかうまくできていて、親が参加者を集めて始めます。参加者の誰かが辞めちゃったら、親がその人の肩代わりをします。契約書もなんにもない、信頼関係で成り立つ世界です。こうやって、銀行に貯金をする代わりに、上手にお金をためるのです。また、TANDAは順番が大事です。最初のほうの順番になった人は、TANDAは、利息なしのローンになるのです。

そのグループで信頼の高い人、つまり、これまでにTANDAに参加してきた古参の人や、親の人が、若い番号をもらうことが多いようです。

このTANDAは、書かれた契約を必要としないので、不法移民や文盲の人たちにとっては、たいへんありがたい仕組みです。また、低利息の銀行に預けるよりも、TANDAに参加したほうが、仲間内で信頼を積み上げるというメリットがあるという理由でTANDAに参加する人もいるようです。

アメリカには面白いカルチャーがいっぱいありますね。
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by toshishyun | 2008-11-18 14:08 | アメリカ文化
文部科学省 新学習指導要領の円滑な実施に向けた支援策で、教材の整備に180億円。

http://www.nicer.go.jp/lom/data/contents/bgj/2008110601024.pdf


このなかで、教材の例として「電子黒板」があげられています。これは、プロジェクターを使ってパソコンの画面を表示することができる黒板で、パソコンの画面で制作した資料を投影しながら、普通の黒板のように、そこにいろいろと書き込みができるというものです。

せっかくの機会なので、学校におけるICTの利用についての流れを少し整理しておきたいと思います。あくまでも雑感です。

インターネット黎明期~成熟期(1995年~2000年くらい)には、
 ・インターネットを生徒の調べ学習に用いる
 ・意見交換や成果共有に電子掲示板やグループウェアを用いる
 ・シミュレーションのためのソフトを用いて、生徒に実際にいろいろと操作をさせてみる
のような利用のされ方が主流でした。

このように、生徒1人に1台、あるいは1人に数台というように、多数のパソコンを用意して生徒に操作をさせる使い方を「タイプI」としておきます。

もちろんこれらの使われ方がなくなったわけではありませんが、最近は、
 ・先生が自分でデジタルカメラで撮影したり、インターネットの資料を使って制作した資料をクラス全体に提示して授業をすすめる
 ・先生が作成した動く資料などをプロジェクターで提示して授業を展開する
のように、先生が自作のデジタル教材を提示する方法が多いようです。電子黒板の導入も、この流れの一環としてとらえられます。

このように、先生のパソコンだけを用意して、電子メディアの特性を活かした教材を提示しながら授業をすすめるような使い方を「タイプII」としておきます。

タイプIからタイプIIへのシフトには、次のような原因が考えられます。

 ・タイプIは、パソコン教室への移動が伴うので実施が困難
 ・タイプIは、シミュレーションやグループウェアの購入が、台数分必要であるが、かつてのように、ソフトウェアにかける予算がない
 ・タイプIで、グループウェアや掲示板を利用する場合、サーバーの設定など、教員に管理者レベルのITスキルが求められる。スキルが足りない場合は業者に依頼することになる。
 ・タイプIは、生徒のパソコン操作能力のばらつきがあるために、実施が困難
 ・調べ学習によるオープンエンドの学習は、総合的な学習の時間などで主に実施されるが、その効果測定が困難
 ・タイプIのように、生徒にパソコンを使わせて学ばせるやり方には賛否両論がある。

 ・タイプIでは、ICT利用が授業方法そのものを根本的に変えている。タイプIIは、これまでの授業方法のほんの一部にICT利用を組み込んでいるので、一部の教員だけでなく、幅広い教員に受け入れられやすい。
 ・タイプIIのようなICT活用方法は、これまでの授業方法の延長線上にあるので、これまでの教材開発の工夫や授業方法の工夫がそのまま活かせる。
 ・日本の授業方法は、ひとつのトピック(資料)についてじっくりと対話を重ねていくスタイルなので、全体の前で資料を提示してみんなで対話をするスタイルであるタイプIIは、教員にも生徒にも受け入れられやすい
 ・タイプIIは、デジタルカメラの操作方法やパワーポイントの操作方法など、基本的な技能の習得だけで事足りるので、教員にとって技術的なハードルが低い

こんなところでしょうか。
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by toshishyun | 2008-11-09 07:37 | ラーニングとテクノロジー

prop8 可決

衝撃的なことに、カリフォルニア州でprop8が可決されました。

propというのは、州法を変更するための提案のことで、住民投票によって可否を決します。prop8は、「結婚は異性間に限る」という制限を州法に加える提案で、すなわちゲイの結婚を禁止するものです。今回は大統領選挙と同日に投票が実施されました。

おおかたの予想は、prop8は否決される、つまりゲイの結婚も容認するというものでした。法の下の人権の平等が選択されるだろうという、この予想は覆されました。

http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/world/america/193038/


これは僕にとってはなかなか衝撃的な出来事で、アメリカでもっともリベラルなカリフォルニアでも、同性の結婚には寛容ではないのかと驚きました。同様の法案は他のさまざまな州でも審議されていましたが、カリフォルニアと同様に、ゲイの結婚を禁止するという採択がなされています。

今回のprop8では、賛成派(つまりゲイの結婚反対派)は、「学校でどう結婚のことを教えるんだ!」「教会の収入が減るぞ!」「私たちはもうゲイの結婚に反対するだけで訴えられるんだぞ!」と主張していましたが、それに対して反対派は、「学校で結婚のことを教えないといけないという法律はありません」「日本人を強制収容所に入れたり、白人と有色人種との結婚を禁じてきたり、この国ではこれまでいろいろな差別があったけれど、今回ゲイの結婚を禁じるのはあらたな差別です」「我々は法の下では平等であるはずです」と主張してきました。

僕には、反対派(ゲイの結婚容認派)の言い分に分があるように思います。みなさんはいかがでしょうか。

同性の結婚を容認するかどうかは、社会習慣的な見方による判断もありますが、やはりキリスト教的な判断が大きくかかわっています。賛成派の言う、「教会の収入が減るぞ」という主張にもそれがあらわれています(ゲイが結婚すればなぜ教会の収入が減るのかはよくわかりませんが)。

カリフォルニアは、マイノリティーの人権を積極的に擁護するアファーマティブアクションのように、人権擁護を大切にしてきた州です。かつて、東部のハーバード大学で、「中国人は(カリフォルニア大学)バークレーにいけ!」という人種差別的な落書きが問題になりましたが、そういうことが東部で言われるほど、カリフォルニアはマイノリティーの人権に手厚いのです。こういう風土のある州では、ゲイの結婚は伝統的価値観に反するという単なる社会習慣的な原因だけで、今回の可決は説明できないように思います。やはり、聖書で禁止されているから、同性の結婚は容認できないのでしょう。

さらにすごいなというのは、既に結婚している同姓婚者の無効を求めて、同姓婚反対派が訴訟を起こすということです。いくら法で禁止されたからといって、わざわざ個人生活の領域にまで踏み込んで自分たちの主張をいきわたらせるというところが、日本的な価値観と大いに違うところだと感じます。

アメリカのこういう議論は日本にも必ず影響します。そのときに私たち日本人が考えなければいけないのは、社会問題に対するアメリカの議論には、必ず聖書と教会の影響があるということです。日本人が持つアメリカのイメージとアメリカの実像にもっともずれがあるのが、この点だと思います。アメリカは論理的・戦略的に物事を考えるリベラルな国という顔を持っていますが、もう一方で、キリスト教の価値観に根づいた原理主義的なまでに感情的な国という顔を持っています。こういう側面があることは、ブッシュ政権の横暴によってある程度日本でも知られるところとなりました。

私たち日本人が、「ゲイの結婚」のような問題を考えるときに、よくあるように「アメリカでは」とか、「先進諸国では」というように、他国の結論だけを引き合いに出して論を進めるのは大変危険なことだと思います。私たちは私たちの価値観できちんと物事に対処すべきです。例えば、「ゲイの結婚」については、日本の文化はゲイに対して伝統的に寛容な文化でした。少なくとも明治までは。そういうような歴史をきちんと私たちは踏まえないといけないと思います。
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by toshishyun | 2008-11-09 05:00 | アメリカ文化
来週、インディアナ州で同僚の先生が道徳教育に関する発表をするので、お手伝いしてきます。

道徳教育につかう資料を翻訳していると、次のようなお話がありました。

「戦時中、ゲンタ君という男の子の家族に、飼い犬のゼロを軍に供出せよとの命令が届きました。家族同然のゼロを助けたいあまり、ゲンタ君は、ゼロにひどい扱いをしてから逃がしました。しかしゼロはおうちに戻ってきてしまいました。ゲンタ君はどうしたらいいでしょう?」

さて、これを訳した英文をチェックするために、研究所の同僚の研究者に見せたところ、どうやら「ゼロにひどい扱いをしてから逃がす」というのが腑に落ちないようです。もちろん、「犬がもう人里に戻ってこないようにというゲンタ君の優しさですよ」と説明をしたらわかってもらえたのですが、この辺がアメリカ人の感覚と違うということ。私たち日本人にとっては、ゲンタ君のやさしさはすぐにわかりますよね。

他にも、「末期がんにかかったお父さんにその事実を知らせるかどうか」というのも、アメリカ人にはそれがよく理解できないということ。本人には必ず知らせるものだというのです。これとて、もうどうしようもないのなら、少しでも明るく生きて、できることなら治ってほしいという、日本人ならわかる優しさです。

本当の優しさとはどういうものかを考えさせられるとともに、優しさにも文化が色濃く反映されるのだなぁと思います。

優しさが誤解されるのはとても悲しいことですし、優しさを優しさとしてきちんとわかりあえるようになるにも、異文化間理解が必要なのだなぁとも思いました。雑感です。
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by toshishyun | 2008-11-08 08:04 | アメリカ文化
まだ調査の余地はありますが、少しばかり聞いたところでは、どうもそのようです。

算数や数学でおなじみの線分図、tape diagramと訳されるのですが、どうもなさそう・・・。

現在僕は、中学生の家族が家庭生活の中で使えるような、数学支援のための携帯電話ソフトを開発中なのです。その開発にあたり、そのソフトで線分図を表示できるようにしようと考えて、「あの、これこれこういう図って英語でなんていうの?」と絵を描いてみせてプロジェクトチームのメンバーに聞いてみたら、「あー、なんだろ?diagram(図)かなぁ」というあいまいな答え。「え、うそ?線分図知らんの?」と若干びっくり。

それから数週間して、日本の数学教育に関する論文をAki先生にいただきました。Aki先生の論文でも、線分図のことを、「日本の数学教育で頻繁に使われる視覚表現」などともって回った説明をしていたことからも、どうやらこちらには線分図がないようです。アメリカでもそれらしき図はあるのですが、日本のように学年や単元をまたいで利用される汎用性のある使い方はしていません。

うそ??!!ほんとに??!!信じられない!
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by toshishyun | 2008-11-08 07:55 | ラーニングとテクノロジー
アメリカには指導案も授業研究もない!!これは驚きです。日本の学校文化の根本を支えるこれらのものがないというのはいったいどういうことなんでしょうか。今日はアメリカの数学教育について、スタンフォード大学のAki Murataさんにお話を伺いました。彼女はスタンフォード大学で日本の算数・数学における授業研究を研究されています。いろいろとお話をした中でこれはと思ったことをまとめます。

アメリカでは、日本の先生がやるような授業研究というものは存在しません。日本の先生は、お互いに研究授業を見せあったり、自分の指導案を共有したりして、当たり前のようにお互いに切磋琢磨をしますが、そういう習慣がこの国にはないのです。

この話の前提としては、次にあげるようなアメリカの教育現場の文化があります。

1) 個人主義
2) 学校の先生は用意された教材とカリキュラムをデリバリー(配達)する人
3) 教員評価

それぞれについて説明します。

1については、これは教員集団の底に横たわるアメリカという国家の文化と言えるものです。個人の自立が集団の和よりも優先されるので、各先生がばらばらの内容を授業で教えます。各州にはスタンダードという、日本の指導要領にあたるものが用意されていますが、これはあくまでも基準であって必ず守らないといけないというものではありません。結果として、先生のスタンドプレーによって、生徒の学力にも統一性がなくなります。もちろん、お互いに授業内容を共有したりという文化はここからは生まれません。研究授業をお互いに見にいったり、大部屋の職員室で机を並べて情報交換なんてことはないわけです。

2については、教員という職業そのものに対する日米の考え方の違いがあります。日本では、先生が工夫をこらして教具を開発したり、教授法を考え出したりして、指導案という形にまとめ、それを授業で実施します。つまり、先生は授業の設計者であり、教材や教具の開発者でもあり、それを実施する人でもあるわけです。ところが、アメリカでは、先生という職業は「用意された教材や教授法を実施する人」という位置づけであり、工夫をこらした教具や教材や指導法の開発は先生には期待されていません。そういう職業的な位置づけなのです。

では教具・教材の開発や授業の設計はだれがやるのかというと、教科書会社や非営利のカリキュラム開発団体といった、専門の業者がやるわけです。先生は、教科書会社が用意したマニュアルに沿って授業を進めます。日本の先生が聞いたらひっくりかえりそうですね。というわけで、授業の設計を記した指導案なるものが存在しないのです。

もちろん、アメリカでも、意欲のある先生は自分で教え方や教具に創意工夫をこらします。僕自身、優秀な先生のそういう授業を見学して感銘したこともあります。ただ、そういう先生が必要とするインフラが整っていないわけです。参考になるような他の先生の指導案などありませんし、授業研究もないわけですから他の先生の授業も参考にできません。日本にもアメリカにも個人として優秀な先生はたくさんいますが、先生が個人でできることには限りがあります。アメリカの先生は、いくらやる気があっても日本ほど教える力がつかないのです。

3については、日本でも大学などでは実施されていますが、教員や校長が評価の対象になるため、自分の失敗を共有してお互いに支えあうという文化がないのです。どうしても評価が入ってくると「共有する文化」から「隠す文化」になってしまうのですね。いくらアメリカとはいえ、評価がすぐにクビにつながったりすることはないですし、多くの教育学区で給与は年功序列ですから、評価が給与につながることは少ないはずですが、それでもやはり「隠す文化」になってしまうのですね。

このような文化的状況を背景として、多くのアメリカの先生は、教科書に載っていることをただただそのまま伝えるだけという授業をしているわけです。もちろんアメリカの先生も生徒を伸ばしたいという思いは日本の先生と同じです。しかし、どのように教えたらいいのかわからないし、特に数学・算数のような科目の場合は、自分自身も生徒としていい授業を受けてこなかった経験がある分、教えるモチベーションもあまり高くないようです。

大学で教育研究に関わる研究者の間では、日本の授業研究の文化は知れ渡っており、多大な称賛が寄せられています。ただ、現場の先生はそういうことは知らないですし、彼らに授業研究をいきわたらせることは、上記の文化的理由でなかなか難しいようです。

僕はヨーロッパの教育なんかは全然知らないのですが、アメリカと比較して見えてくるのは、日本の教育がいかに優れているかです。日本の先生はとっても優秀ですし、こちらの先生と比べてもよく働きます。例えば、カリフォルニアでは先生は家庭訪問をしません(移動の問題とかもあるでしょうが)。古くから積み上げてきた創意工夫を惜しまない授業研究文化によって、日本の子供たちは、格安の授業料で非常に質のいい教育を受けています。

日本のマスメディアでは、日本の教育の問題ばかりにスポットライトをあてて、あたかも日本の教育が崩壊しているかの印象を与えています。その結果として、アメリカで大失敗している評価結果の公開やバウチャー制度やチャータースクール制度の導入が検討されたりしています。インターネットなんかでも、教師に対する評判は、休みもたくさんあって楽だし、自分の思いのままにできるから社会性がないなどと、偏見も交じってさんざんだったりします。日本の社会での、学校に対する評価は厳しすぎるようです。

しかし、そうではないということを、アメリカの教育現場との比較を通じて伝えていけたら、と思っています。私たちにとって、一時的な感情論ではなく、メディアや偏見のフィルターを外した客観的な姿で日本の教育をとらえることが、次の世代の教育をより良いものにすると思うからです。
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by toshishyun | 2008-11-07 05:54 | ラーニングとテクノロジー